卒業 彼岸桜 芭蕉

  


本日もまだ少し肌寒く、午後から雨が降る。






卒業シーズンになり時々斉藤由貴さんの「卒業」が流れる。



同じ時代にこの歌を聴いたものとしてはやはり懐かしいような切ないような感慨を覚える。




何も分からず、不安であり、同時に自負やコンプレックスや、いろいろな希望が頭をかけめぐっていた若い自分の姿が思い出され苦笑とも恥ずかしいともつかない気持ちになる。









1週間ほど前に檀家さんが雪折れした彼岸桜の大きな枝を軽トラックに積んで持ってきて下さった。



折れた枝に沢山の花が開花した。



枝を切り分けてキッチンや玄関に活けるといまだに花が枯れずに眼を楽しませてくれている。


春は人生のいろいろな節目にあたり、その時期に桜という美しい花が咲くのは何か天の恵みのような気がする。



さまざまなこと思い出す桜かな    芭蕉




非常に現代的に感じる句であるが、私たちがこの句に共感できるのは日本人が春や桜に様々な思いを抱いているからだろう。それにしても「様々」と「桜」と言う言葉がさ行で響きあっているのが実に心地よく感じられる。






この句は芭蕉が故郷伊賀上野に帰郷した折に詠まれたとされるが、伊賀上野にはこの句にちなんだお干菓子があるとのこと。



【紅梅屋“さまざま桜”】http://item.rakuten.co.jp/koubaiya/23/#23




一般にいわれるようにこの句に込められた思いというのは芭蕉の人生への回顧だけではないかもしれない…と彼岸桜を見ながら思った。


西行 (新潮文庫)

西行 (新潮文庫)



芭蕉という人は西行に特別な思慕を抱いていた。



僧形の芭蕉が弟子の曾良と旅に出る絵が有名だが、この僧形とは西行に扮しているのであるという指摘がある。能楽師の安田登さんの説である。






今日風に言うなら芭蕉は<西行のコスプレ>をしていたということになる。




西行は生涯に詠んだ2000余りの和歌のうち200首以上にが桜にまつわるものであるといわれる。西行は花(桜)の歌人なのである。



西行を思慕した芭蕉にとって桜からまず連想されるのは西行が桜について詠んだ歌の数々ではないだろうか。



この句を詠んだ芭蕉の思いのなかでは眼前にある桜、芭蕉自身の人生経験のなかの桜、そして敬愛する西行の桜の歌…それらが渾然となっていた気がする。



そのこと思い、そこに自分の桜への思いを重ねながらこの句を思い返すと、眼前に桜の花びら舞うような不思議な感覚を覚える。






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