イケメン不要 時には偏見を 喝!

  


子供の頃から落し物、忘れ物の類が多い。



節分法要で秘仏の御本尊を開帳した後、




扉の鍵をロスト…


ようやく出てきたと思ったら




今度は兼務寺院の本堂の鍵をロスト…





時々、自分で自分を信用できなくなることがある。









娘が風邪で学校を休んでいるのでつれづれに話をしていると



「私はイケメンと結婚できなくてもいい」


と娘がいいだした。





「イケメンでなくていいからお金持ちで、優しくて、運のいい男の人だったら誰でもいい」



そういうのは誰でもいいとはいいません!





父は40過ぎても結婚のビジョンが固まっていなかったのだが…





娘に宇宙旅行に行ったことがあるとホラを吹いた。




月まで行ったというと信憑性がないので大気圏ギリギリまで行って引き返してきたということにしてある。



娘は信じ込んでしまい、根掘り葉掘り宇宙の様子を尋ねられた。





まだまだ低学年です…







相変わらず古書を買ってばかりいる。



本を買いたくなったら図書館で本を借りて衝動を抑えるという作戦を考えた。


一昨日は密林のサイトで野崎光洋さんの料理本を見ているうちに欲しくなってしまい
翌日図書館で探したが見つからず代わりに谷昇さんというフレンチのシェフの本を借りてきたらよくできた料理本で感心。使う道具はフライパンと鍋、調味料は塩、胡椒、バターを主にして本格的なフレンチを作るというもの。(但し“手間”は非常にかけておられます)



それはいいのだが今度は谷昇さんの他の作品も読みたくなってしまった。


ミイラ取りがミイラになるような展開である。



【こちらは日常的な料理が主とのこと】




最近ハマっているのが高山正之さんの<変見自在>というシリーズである。未読の方には超オススメ。




<変見自在>というのは週刊新潮連載の人気の辛口コラムである。コラムなので1話あたりの分量は少なく、沢山のテーマについて語られていて読みやすい。




朝日を始めとする既成ジャーナリズムに疑義を呈し、或いは米中露を始めとする大国がいかに身勝手な振る舞いをしてきたかということへの鋭い批判である。


新聞やテレビの報道を鵜呑みにし、日本人的な善意だけで国際社会を理解しようとすることがいかに危険かということを気づかせてくれる。



日本では国旗、国歌を忌避するような根強い反国家、反権力の意識が醸成されている一方で、マスメディアや学界のような確立された権威に大変に弱い或い。   




これは日本人の弱点であり、その一点を克服するだけで日本は大いに変わりうると思う。


人々が偏見に染まると、今度は正論が偏見となってしまう。困ったことである…









禅宗の葬儀に客僧として出仕することがある。



禅宗の葬儀では「喝!」と大音声で唱える。



あれはどういう意味なのか?


1度禅宗の方にお話を伺ってみたい。


勝手な印象ではもろもろのことを「断ち切って前に進みなさい!」と激励されているような感じがする。


不幸の原因というのは外から来ているいように見えて自分が何かを手放せないでいることが実は大変に多いのではないだろうか。


「喝」という言葉自体に「叱る」という意味がある。


中国語の発音記号だと「喝」は“he”なので日本語だと「ハー」や「ホー」に近い音になるだろう。


中国の禅僧もそのように唱えておられるのだろうか…

喝を唱えるのはどのような音でも良いという人もある。


ならば


「ぱお〜ん」でも「ニャー」でも「シェー」いいことになるが…




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