仏舞と白い馬 60兆の友達を





昨日は松尾寺にて卯月八日法要、並びに仏舞が行われ無事終了。




出仕していると写真を撮れないのが残念だが、天気も快晴で何よりだった。



(おまけに急にブログに写真をアップロードできなくなり困っている)




長らく休業されていた門前の御茶屋さん“流々亭”さんが一部営業を再開されていたので、法要の後、出仕された御住職と一緒にお茶をいただいた。




落ち着いた古民家である流々亭さんの縁側で頂くお茶の味は格別である。




お店を営まれている姉妹さんとも古いお付き合いなので話が弾む弾む…



【流々亭さんのブログ】http://ameblo.jp/rurutei/entry-12272850093.html




今年は松尾寺の参道の周辺にシャガの花が沢山咲いていた。シャガは清冽な白い花が好ましい。どちらかというと日陰を好んで咲くようで陰影と白のコントラストが生まれる。




当山もかっては千株くらいはシャガがあったはずだが鹿により壊滅。





夕方、テレビでタレントのたむけん氏が舞鶴を1日旅するという番組を見た。



一行は赤れんがパークや自衛隊桟橋を観覧の後、松尾寺に参拝されていた。



松尾寺の御住職がなぜかたむけん氏のことを



「キムタク」さん


と呼んでおられたが、事情は不明…



たむけん氏は本堂内陣で秘仏の御前立ちである馬頭観音様に参拝。



カメラで少し高い位置か撮影して頭上に白い馬が載っていることを映していたが、普通は下から見上げる形で参拝するのでこの白い馬をはっきり観ることがない。




松尾寺の御住職は頭上に頂かれている馬の像を「白馬頭」(はくばとう)と呼ばれていた。



「白馬頭」(はくばとう)という名称は初耳。




馬頭観音は緑色の馬の頭である「碧馬頭」(あおばとう)を戴く場合もあるらしい、)



中国で最初に開かれた仏教寺院は後漢に洛陽郊外に建立された「白馬寺」である。



仏教と“馬(白馬)”はどうも深い縁(えにし)があるらしいのだが、詳しくはよくわからない。








白楽天詩選 (上) (岩波文庫)

白楽天詩選 (上) (岩波文庫)





玉容寂寞涙闌干  梨花一枝春帶雨



本日は夕刻より春の雨。ちょうど白居易の「長恨歌」を読んでいたら、涙にくれる楊貴妃を「春の雨に打たれる梨の花」と表現されていてなかなか素敵だと思った。








本日は読書がきっかけで意識のなかで大きな変化があった。




昨日、倉庫から何気なく引っ張りだしてきた高岡英夫「ゆる呼吸法革命」(主婦と生活社)をパラ読みしていたら、なぜか心にヒット。




久々のクリーンヒット、否、もしかしたらホームランかもしれない。




もう10年も前に買った本だが、時間を経ていろいろ感じるというのも面白い。





ここに書かれているのは“仮説”であってエビデンスのある話ではない。




ただ私の実感としてきっとそうにちがいないという気がするのである。






昨年、リユック・ベンソン監督の「LUCY」というSF映画を観た。




(学者)「どうやって情報にアクセスしてるのかね?」
(ルーシー)「電気インパルスよ。全ての細胞は互いに会話しているの。瞬時に膨大な情報を送り合っている。細胞が巨大なコミュニケーション網を形成して、それが物質をつくる。細胞が合体して、ある形をつくるのよ。」



<全ての細胞は互いに“会話”していて、瞬時に膨大な情報を送りあっている>

<細胞が巨大なコミュニケーション網を構築してそれが物質を形作る>




この映画の世界観がとても心に残っていたのだが、本書の内容はそのこととつながるような気がする。








“私”は自分の体をどのように意識しているだろうか?


という問いを考えてみたい。



おそらく私たちは自分の体を道具か何かのように“モノ”という意識で考えているのではないだろうか。




それに対して人体を構成する60兆の細胞に対して“ヒト”的な意識でアプローチしようというのが著者の考えなのである。




60兆の細胞が意思(ないしはそれに準じたものを持つ)と考え、それにアプローチしようというのである。そのことによっていわば





『60兆細胞と友達になる』



そして全身の細胞と親和的で一体感のある意識をもつための呼吸法と運動法がこのなかで述べられている。




私たちは自分の身体対してどんな意識をもっているだろうか。



通常は(当たり前ながら)60兆の細胞が個々に持つ意識を否定しているにちがいない?




もし私たちが会社で働いているとして




いつもイライラしたりガミガミ小言を言う上司。


社員の存在を無き者のように振舞う冷淡な上司。


部下がただ機械の歯車のように働けば良いと思っている上司。


もし社員が疲れたり体調が悪くても無視したり、逆にそのことをなじったり叱咤する上司。





こんな上司は嫌ですよね?





つまり私たちは自分の身体を構成する細胞にこうした“嫌な上司”の如く振舞っているのではないか?




もちろん…




出発点として細胞に意識があるという仮説がすでにブッ飛んでいるわけですが(笑)そこはとりあえずスルーしましょう!





例えばトレーニングをするとき細胞対して


「もっと頑張れ!」
「どうしたこんなこともできないのか?」
「昔はもっとできたじゃないか」



そんな意識を発しているのではないだろうか…




体が不調なら自分の体に対して



「なぜ治らない?」
「こんなはずじゃない」
「他の人は治っているのに」



そんな意識をもつのではなだろうか・


それに対して自分の細胞とつながる意識をもてば細胞をいたわり、つながり、一体化する意識をもつことでことで運動のパフォーマンスや病気の治療が大幅に向上するというのである。




“嫌な上司”のもとで辟易してイヤイヤ働いていた社員たちが、自分を認め、いたわってくれる上司のもとで俄然、生き生きを働き始める…そんな感じだろうか。





早速ここで示されている呼吸法や運動を行っていると体が如実にゆるんでくるのが感じられた。






もう少し先を考えてみた。




もし自分の体と親和的に、一体感を持ってつながることができるなら、この世界や宇宙ともそのようにつながれるのではないか。



そうした意識なしには自分という存在はただ無に等しいちっぽけな“個”にすぎない。




宗教のひとつの側面はこの世界や宇宙とどうつながれるか、どのようにリンクできるかということではないかと思う。



そのためにも体をゆるめ、自分が自分の体と(もちろん心とも)親和性や一体感をもってつながることは、宇宙や世界とのつながりかたに反映(直結)する気がしている。








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