山寺雑感 トンボの目

 






何年か前まで毎年、“消火器の詰め替え”という名目で巡回している業者があった。



しかも実際には“詰め替え”と称しているだけで預かった消火器に『点検』と書いたシールを貼って返却するだけという何とも荒っぽい手口だったが、ここしばらく見なくなった。



本日は“消火器の交換”という連絡があり、念のために立ち会ったがこちらは正真正銘、古文化保存協会というところから派遣された正規の業者さんに無償で消火器の交換をして頂いた。



いちいち疑ったりしないといけないのは情けないのだが、お寺というのはオレオレ詐欺のような大掛かりなものから有象無象の業者さんまで実にいろいろなところからコンタクトがある。








昨日は「快慶のことで訪問にくる人がある」とメモがあったので快慶仏のことで聴きにくる方かと思って待っていたら…



会計担当の檀家さんが来られたので笑ってしまった。




雨で訪問や参拝もないと油断してユニクロのジャージ姿で油断していたら。


地元のK銀行の支店長という立派な紳士がやってきて、山寺の三重塔を銀行のポスターに採用したものをわざわざ持ってきて頂いた。



そのことは誠に有難いのだがジャージ姿の私をみてにこやかに…


「ご住職にお会いしたいのですが」



と言われた。やっぱり住職には見えなかったのだろう…







本日から12月。おぜんざいが少し残っているのでご無沙汰の方やお世話になった方にもっていく。善隣外交ならぬ“善哉外交”である。






数年前にとみ新蔵さんの「剣術抄」という劇画を読んでかなり眼から鱗の体験をした。




テレビや映画の時代劇で決闘などのシーンがあると両者がすさまじい緊張(集中)の状態で対峙してから激突するという場面がある。


とみ氏によれば<相手に集中する>とか<緊張する>というのは全然ダメなのだという。



対峙した相手の背景の自然をぼんやりをみるというようにすると逆に相手の心理がよくわかるというのである。


したがってとみ氏の描く達人はどことなくぼんやりと相手と対峙していたりする。




武道というのは殆ど経験がないが、例えば相手に気功をするときに相手に集中するほど良いと当たり前のように考えていたので、試しに相手に集中するのではなく相手の背後をぼんやりとみるような気持ちになってみると、それまでとは全然違うものが感じられるようになった。


或いは供養をする時も同じように、供養の対象に集中するのではなく少し気持ちを離して供養の対象を感じるということをしてもやはり全然違うものを感じるようになった。


何事にも集中すればするほど良いという思い込みがあったが個人的にはちょっとしたコペルニクス的転回を経験した。


身体のホームポジション

身体のホームポジション


身体論者の藤本靖さん『身体のホームポジション』(BABジャパン)を読んでいたらトンボの目という一節があった。


私たちはものを見る時に眼に力を入れてしまい眼精疲労をおこすことが多い。


一方、視覚を司っている大脳の視覚野は私たちの後頭部にある。



例えばパソコンで作業する時に後頭部の視覚野の左右のあたりにトンボのような大きな目があるとイメージして画面を見たり作業すると視野が広くなり作業がはかどるという。



目から意識がはなれることで眼球を動かす筋肉の緊張が抜け、併せて首や腕もよりリラックスすることができるなのだという。




なかなか面白い指摘でさっそく試したみたいものである。






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