ラストクリスマス ガラシャ夫人質事件異聞


クリスマスに幾つも悲しいニュースが報じられた。


皆が平和でありますように。



哀しいニュースを聞く最後のクリスマスが早く来ますように。









クリスマスと年末にかけての忙しさのなかにいるが今年も残すところあとわずかである。



いくつか大きな懸案事項がなんとか終わりひと段落。合間に読書少々。




月刊 秘伝 2012年 09月号 [雑誌]

月刊 秘伝 2012年 09月号 [雑誌]



BABジャパンの「秘伝」のバックナンバーを最近何冊か買ったが特集記事以外にも拾い物的な内容がいくつか出会えた。



当地に関連のある記事としては稲富流砲術の祖であるの稲富伊賀守祐直(すけなお)のエピソードが面白かった。(2012年9月号所収『砲術「稲富[一夢]流」空白の謎と奥州伊達家の鉄砲』)




 慶長5年(1600年)石田三成徳川家康会津上杉征伐に発つや反旗を翻した。
三成は上杉攻め従軍した諸将の奥方を人質にとる計画を企てが細川忠興正室である玉もその人質の1人となるはずであった。(正室である玉を細川ガラシャと呼ぶようになったのは明治以降であるらしい)



三成が玉を人質としようと企てると豪胆な玉は自決し屋敷に火を放って三成の企図をくじいた。玉はクリスチャンであることから自刃していないと一般にいわれるが必ずしも確たる根拠があるわけではないようである。


このとき玉を警護していたのが稲富伊賀守祐直(すけなお)という人物。



祐直は丹後国の住人として代々一色家に仕えたが細川忠興によって一色家が滅亡すると浪人となって丹後を去るも忠興により強引に家臣に加えられた。


なぜ忠興が引き留めたかというとこの祐直が砲術の技量のおいて卓抜していたからである。
単なる射撃技術だけでななく鉄砲や火薬の製造を含めた高度な知識を有し、多数の門弟を教育していたようである。


その門弟らは玉の自害の寸前に祐直を強引に大阪城に拉致した。結果的に祐直は敵前逃亡の誹りを免れ得ない立場となり、最終的に鉄砲に強い関心を持つ伊達政宗に庇護されることなった。


伊達政宗は祐直一行の亡命を受けいれるとともにその技術や知識を伊達藩の鉄砲製造に組み入れ最終的に広大な仙台藩領に多数の鉄砲鍛冶集団を作り当時の日本最大の鉄砲生産を誇るようになる。


仙台藩関ケ原の戦い以前は硝石の輸入を密輸に頼るほどであったが、大阪冬の陣では伊達家は鉄砲6000挺をそろえて徳川陣営を驚かせるまでになった背景にはこの祐直の伝えた砲術の影響が大きいとされる。


伊達家の鉄砲組の末裔は火縄銃の古典的な射法を伝える鉄砲催事を300年余りにわたって継承し続けている。


かって日本には1万を超す武術の諸流があり、砲術にかかわる流儀も数百に及んだと考えられるが、これほど長期間にその流儀が綿々と継承されたことは稀有な例である。



これまで何度かブログに書いたことだが石田勢が田辺城に籠る細川幽斎を攻めた際に細川幽斎のみが伝授を受けた古今伝授という文学的秘伝を朝廷が惜しんで和議が結ばれ、足止めされた1万5千の石田軍は関ケ原の戦いに参加することができなかった。このことは関ケ原の戦いという日本史の大きな分岐点に大きな影響を与えた。


一方、忠興の正室である玉が自刃してまで三成に抗ったことも決して影響は少なかくなかったように思う。


玉を手初めに徳川方の諸将の妻子が次々と人質とされればそのこともまた石田勢を大いに利したに違いない。


そう考えると忠興の父である細川幽斎の文化力と正室である玉の女性力という武力ならざる2つの力が石田三成の企図を大きく頓挫させ、徳川300年の幕藩体制の始まりに少なからぬ影響を与えたといえるのではないだろうか。三成はきっと悔しがったに違いない。




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