物体 アニソン煩悩 今ある

数日前に境内を見回っていると視界に異様なものが眼にはいった。



真っ白い目にも鮮やかな物体である。


しばらく目をこらしてそれが6、7メートルの木の枝であることが分かった。


よく見ると周囲の木々もかなりが樹皮を齧られている…




雪折れしたか何かの理由で落ちた枝の樹皮を鹿が舐めるように食べつくしたらしい。


冬枯れのくすんだ景色のなかに真っ白い物体が横たわっているのは不思議な印象だった。


その後、霊園に行くとと先日法事で備えたばかりの大きな花束が花も葉も綺麗に食べつくされていた。


やれやれ…


 



車で移動することが多いが車中では大抵、宗教関係の講義のCDを聴いている。



車で移動中というのは内容が案外頭に入る感覚がある。法事に行く前などもやはり気持ちが落ち着く。


が…


たまたま古いアニメや特撮番組の主題歌集のCDが出てきて聴いたらすっかりハマってしまった。


60年代から80年代にかけてのアニメや特撮番組の主題歌には良い作品が多い。


どこか粗削りながら心を熱く燃焼させるような感覚がある。


さらに密林で中古のCDを何枚か買い



車のなかではほとんどアニソン煩悩というくらい繰り返しきいている。





気分転換には良いのだが転換しすぎて本に戻れない感がある。


駄目だ…楽しすぎる…




懸案だった霊場会の決算作業がひと段落してようやく一息ついたところ。



一日二日は少しのんびりしたところである。



本日は霊場会の会議で大阪へ出張。



外出して家に帰る度に感じるのは家というものの有難さである。



家に帰って安堵と共に体をくつろがせるのはなんとも心地よく、有難い。



先日ふと考えたことがある。



人間とは「あるものは認識できて、ないものを認識してしまう」のではないか


普通に考えると「あるものは認識できて、ないものは認識できない」と考えがちだが、案外その真逆の場合もあるのではないだろうか。


家族が居ることに慣れてしまうと、どこか空気のように感じたり、場合によっては家族を疎ましく思うことがある。


ところが、その家族が亡くなって初めて、その家族の存在がいかに大きかったかということを痛切に感じる。





自分の家というのもえてして不都合なところばかり目がいく。


それどころか立派な家や新しい家を見ると羨ましく思ってしまうのだが、自然災害などで突然に自分の家を失うと、家の存在がいかに自分の心や身体を支えてくれていたかを実感することになる。



仮設住宅で亡くなる人のニュースが時折報道されるが自分の家を亡くした喪失感は心にも体にも甚大な影響を与える。





私たちはもっともっと今あるものを愛で、感謝するべきなのだろう。



そしてそれがなかなかできないのが私たち人間の困った習性なのかもしれない。




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