ヒヨドリ 布施のサイクル セラミックヒーター

本日は啓蟄


数日前には土の中にあった水仙が勢いよく新芽を地表に出していた。



青々とした色といい、勢いのある姿心地よい。



寒椿が揺れていたのでよくみるとヒヨドリがしきりに何かをついばんでいる。


この時期は鳥の活動も旺盛になる。


ヒヨドリは高い声でよく鳴くがその鳴き声を「ヒーヨ、ヒーヨ」と聞き取ったのが名前の由来であるらしい。








【こちらは鳥種不明。時々見かける。→友人から“カワラヒワ”とご教示頂きました。】



庭園の池で溺死した鹿の遺骸を藪に持っていったが、数日で元の形が亡くなった。


四肢がバラバラになった動物の遺骸は無残な姿である。


そうした姿を見る度に、ふと「これは自分の体を他の動物に布施している姿ではないか?」と感じることがある。


肉食動物が草食動物の上に君臨しているようなピラミッド型の関係というのは必ずしも正確な認識ではないのではないだろうか。



肉食動物は必ずしも餌にありつけるわけではなく、餓死するものが大変に多いという。


草食動物にとっても一定の割合で固体が減らされることが無ければ、個体数の膨張で食料がなくなり、環境も破壊されてしまうにちがいない。


どんな動物もその死骸は他の動物や昆虫の餌となり、植物の滋養となる。



全ての存在が自分の生命を与えあい、分け合けあい、布施しあっているというのが正しい見方ではないだろうか。



そして…


人間だけが明らかにこの与えあい、分け合うという布施のサイクルから外れつつあるように思う。その結末は一体どのようなものなのだろうかと少し心配である。






本日は仏像を収めた建物でお勤め1件。


真夏や真冬など寒暑のよほど厳しい時は庫裏でエアコンをかけてお勤めをするのだが、やはり本尊の阿弥陀様をはじめ仏様の前でお勤めをすることには意味があると思う。


それでもあまり寒暑が厳しいと参列の方に申し訳ないという気がする。読経を聴き、故人に思いを向けて頂きたいのに暑い寒いということに心がいってしまってはもったいないと。


お堂は冷暖房の設備が無いので本日のような寒の戻りがあるとかなり厳しい。最近、リビングと老僧の居室に安いセラミックヒーターを買ったがなかなか具合が良い。


思いついて2台のセラミックヒーターをお堂に運んで参列者の足元におくようにした。
温風が足許に流れてなかなかいい感じである。



が…


30分ほどしてネットに接続できないな…と思ったら、ブレーカーが落ちていることに気が付いた。


セラミックヒーターの消費電力が大きすぎたらしい…なかなか上手くいかないものである。


ホールの葬儀では祭壇が大きい小さいといったことが価格の差になっているが、白木の祭壇というのは必ずしも宗教的な根拠に基づいたものではないのではないかという気がする。


その一方でお寺の檀信徒の方が菩提寺の本尊の前で供養することは十分に意味のあることである。


かっては自宅での葬儀がごく普通に行われたが、今日ではホールでの葬儀が主流になりつつある。これから葬儀や法要も一層大きく変化してゆくに違いない。





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