彼岸中日 ウグイスと檸檬 放てば手にみてり

 



【雨に打たれる松尾寺の本堂】



モクレンのつぼみふくらむ】




4日間、松尾寺の彼岸法要に出仕。本日は彼岸の中日。


初日以外は連日冷たい雨の降るお彼岸になった。関東では時ならぬ雪も降り天候はいよいよ不順である。


本日は午前中の彼岸法要の後、法事1件。


寒さで手の感覚が少し無くなっていたらしく読経中にい経本を取り落とし…


大般若状態に!(経本が思いっきりバラバラになった状態)


法事の後は再び松尾寺に出仕し最後の総供養のお勤め。




お勤めを終えて庫裏から退出するときにご住職がわざわざお見送りにでてくださったのだが、車のエンジンをかけ、車の窓を開けると同時に車の中で聴いていたCDプレーヤーからアニソンが大音量で流れたので焦った…







昨日の朝は鳥がしきりに鳴いているのに気が付いた。ウグイスが鳴いているらしかった。


春の朝方、布団のなかでウグイスの声を聴く…私にとっては極楽至福の心地がする。


ウグイスは「ホーホケキョ」となく以外にもいろいろな鳴き方をする。


『さえずり』(bird song)主に縄張り宣言や雌を呼ぶために、繁殖期の雄が発する鳴き声。『地鳴き』(bird call)さえずり以外の鳴き声。主に繁殖期以外での鳴き声。

という区別があるとのこと。


私たちが普段ウグイスの声として聴いている「ホーホケキョ」が『さえずり』でそれ以外の鳴き声が『地鳴き』ということなのだろう。





久しぶりにハマりのドラマだった石原さとみ主演の「アンナチュラル」が終わってしまった。第2シーズンが始まるように祈祷したいくらいである。


主題歌だった米津玄師さんの「Lemon」もとても売れているらしい。








禅宗の御住職の書かれた文章のなかに「放てば手にみてり」という一節があった。



印象に残ったので調べてみると道元禅師の言葉だった。



<手から離すと満ちる>というのは一見矛盾しているようである。


形のあるものも無いものも何らかのものを持つことで私たちは支えられている部分があるのは間違いないが、同時に持つことによって縛られていることもある。


そもそも持つという状態を認識できないでいることすら多い。つまりそれを手放すという発想が無いという偏った状態を普通だと思ってしまう…



私たちは持つのは良いことだという感覚からはなかなか抜け出さない。


自分のなかにあるプライドのようなものであればそれはあって当たり前…手放すなどということは考えもしないだろう。



しかし実はそれらを手放すことができればもっと自由になれるかもしれない。今の苦しみや悩みはそれを持つことから生まれているのであれば、それを手放してみるという発想に切り替えることが必要なのだと思う。





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