人生の領収書 御影供 オプション不要
新緑が美しい。
今年は桜が随分早くに散ったが新緑の到来も例年より早い気がする。
新緑のもつ生気、清々しさ、エネルギー、明るさ…これらをどう表現すればよいか適当な言葉が見つからないし、写真に撮ることもできそうにない。
どなたも是非、新緑の野山に出て直に触れられることを願うばかりである。新緑の季節は素晴らしい。
昨日は隣町の真言寺院で行われる御影供法要に参加。
天井の高い大きな本堂のなかで数百の塔婆が朗々と読み上げられる。出仕した私たちは三十三か所の御詠歌を唱和する。独特の雰囲気と格式のある法要である。ウチのいい加減な法要とは大違いである(苦笑)唱和といっても私はきちんと御詠歌を習っていないのでかなりあやふやであるが…
毎年いろいろな法要に出仕させて頂くが法要に参加できるというのは住職にとってのひとつの冥利といってよいと感じる。
知人からの便りに「50(歳)までは請求書の人生、50(歳)を過ぎたら領収書の人生」と書かれてあった。
人生50歳までは人に何かを求める「請求書の人生」だが、50歳を過ぎたら今までしてもらったことに対しての御返しの人生という意味で50を過ぎたら領収書の人生なのだと。
いたずらに歳を重ねてなかなかそんな心境になれないので汗顔のいたりである。
かっては人生を50年といったものだが、現役を終えてからの人生はもうひとつの人生とよべるほど長いものになりつつある。
そのもうひとつの人生を同じように請求書をつきつけて送るのか、領収書という御返しの人生送るのかは随分違ってくる。
学校でも人生について考える時間を与えても良いのではないだろうか。
眼の前の課題をこなすことや規則をまもることばかり教えるのではなく人生とは何か、人生をどう生きるのかということを早い時期から教え、考えさせるべきでるあると思う。
しばらく前に親族の葬儀を終えられた檀家さんと御話する機会があった。
そのお宅では納棺の際に故人が巡られたお寺の朱印帖を入れられ、故人にはおいづるを着せ生前の思い出の品なども棺にいれられていた。
最近はそういう昔ながらのこともされなくなりつつある…という話になり、葬儀社の対応に話が移った。納棺に際し葬儀社からは納棺のために『上等の布団』や『特別な畳』を勧められたという話を聞いて少し驚いてしまった。
そういうものがあるというのも初耳…そういえば棺の中に布団が入っているのを一度見た記憶がある。それにしても棺のなかに畳を敷くというのは想像もしなかった話である。
死に装束というのは基本的に巡礼装束や僧衣に準ずるのが本来の形であるので、形式的ではあるが杖袋や笠袋に決められた文言を筆書きする。
ちなみに笠袋には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」の4句を書く。
亡くなって四十九日以前にお盆が来る場合は、翌年のお盆が初盆となる。
これは四十九日かけてあちら側に旅をするという発想に基づくのだろう。
昨今は葬儀の簡略化がすすみ葬儀社によっては杖袋、傘袋を省略しているところもある。
それでも布団とか畳というのは少し方向性が違うのではないかな…という気がする。
どうせなら立派な金剛杖とか特別な笠を用意するというのならわかるが、布団や畳で居心地がよくなれば旅立ちにくくなる気がする。
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