鹿の声悲し

昨日、高橋英夫さんという方の「芭蕉遠近」(小沢書店)という本をパラ読みしていたら、こんな句が載っていた。

            ぴいと啼(なく)尻声悲し夜の鹿

「『ぴい』と長く響く鹿の声が夜に悲しく聞こえてくる」というほどの意味だろうか。

私はこの句で「尻声」という言葉を初めて知った。
辞書によれば「尻声」とは長く、後を引く声のようである。

         http://dictionary.goo.ne.jp/search/0983600-0000/jn/5/

実際、毎晩のように山から聞こえる鹿の声は、長く、鋭く、胸を突くように聞こえる。

私は「尻声」という文字からセクシャルなものを想像したが、鹿の悲しげな声は交尾期のものだと考えられていたので「尻声」にそうした哀しさを連想することは芭蕉も意図していたに違いない。

「びい」「尻」「悲し」「鹿」…いずれも母音の「い」の音が含まれているので、その連鎖を計算したに違いない。長く跡を引く鹿の声は「い」の長音のようにも聞こえる。母音の中で鹿の声に相応しいのは「い」音しかない。句の中から長く、鋭い鹿の声が響いてくるようである。

何年か前のことである。大雪の降った冬に庫裏の周りで甲高い、不思議な鳴き声が頻繁に聞こえた。
かなり雪の降り積もった時期にもかかわらず鳴き声の聞こえる方角が高速で移動するので最初は鳥だと思っていた。

その声が途絶えて随分経ってから、境内の奥にあった貯水池に鹿の親子三頭溺死しているのが見つかった。
おそらく雪が降り積もった貯水池の水面を踏んだ子鹿が溺れ、それを助けようとした親鹿が相次いで溺死したように思われた。

頻繁に聞こえた不思議な鳴き声は小鹿を探す親鹿の声であったらしい。
子鹿が死んだことを知らずに、親鹿は随分長い間探し回っていたことになる。
山寺に住んでいると生き物の悲しさや寂しさを眼にすることもある。