ツンデレ禅語
「喫茶去」という有名な禅語がある。
「帰って茶でものんでこい」→「顔を洗って出直してこい」くらいの意味だと思っていたのだが、「お茶でも召し上がれ」という丁寧な意味に解釈することもあるらしく…諸説あるらしい。
訓註 禅林句集(改訂版)
「まあ、お茶を一杯召し上がれ」
茶の湯 禅語便利長 (主婦の友社)
「喫茶はお茶を飲むの意味、去は意味を強める助字。
従って、お茶でも飲もうよの意味」
禅語字彙 (柏林書店)
「茶でも飲んで行け」の機語。
禅語辞典 (恩文閣出版)
「喫茶し去れ」お茶を飲んでから出直してこいの意味。
禅林名句辞典 (国書刊行会)
「むずかしい話は抜きにして、まあお茶でも召し上がれ。
お平らに、お楽にという意味」
日本語にも同様の表現方法がある。
『お茶を飲んで行きなさい』
『ご飯を食べて行きなさい』
この場合「行く」という動詞に重点はなくて「お茶を飲む」「ご飯を食べる」という行為が表現の中心である。
禅門を叩いた人間に「茶を飲め!」と痛罵するのも、あるいは「お茶でも飲んで言ったら」と柔和に語っても或る種の強烈な拒絶ではないだろうか。
だが…
諸説にあるように日常茶飯が禅であるとするなら茶を飲むことすら禅境に通ずるものがある。
実は禅門を閉ざしているようで、禅門を大開放し、まさに禅の心を伝えているのかもしれない。
本当のところはどうなのだろうか?
一度、禅宗の御住職にゆっくり聞いてみたいと思っているのである。
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