ジャパニーズ・グラフティ

 このところイタリアフィレンチェの大聖堂に日本人が落書きしていたことが取沙汰されている。

 このことは日本側の態度が極めて厳格だとして逆にイタリア国内で報道されるまでになった。

   http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00135937.html
 
 当のイタリア人の感覚としては「落書きくらいいいんじゃない?」というところだろうか。

 私の住んでいる山寺は住職が来るまで無住に近い状態が長く続いていて、住職が20年ほど前にこのお寺に赴任したとき、本堂の周りは落書きで埋め尽くされていたという。住職としての最初の仕事は落書きを消すことだったそうである。今でも本堂の壁を良く見ると、古い落書きの跡が沢山見つかる。住職はどんな思いで落書きを消したのだろうかと思うとちよっと感慨深いものがある。

 言うまでもなく建造物などへの落書きは控えるべきことである。
 京都でも右京区の嵯峨野では観光名所である「竹林の小路」で竹に落書きしたり、名前などを彫りつけることが多発しているという。本当に困ったことである。

 私は人が大切にしているものを傷付けて幸せになれるはずがないと思っているが、そんなことに意にも介さない人がいるのは不思議でもあり、残念でもある。この世は因果応報である。人が大切にしているものを傷つけたら、自分もまた大切にしているものを傷つけられると知るべきである。

 もっともイタリアの大聖堂のそばでは業者がペンを売っていて、「名前を書くと記念になりますよ」などと勧めて商売しているらしい。日本人ならその場の雰囲気で思わず落書きしてしまうかもしれない。その点は情状酌量の余地ありだろう。ちなみに世界各国の観光客の中でもっとも評価が高いのは日本人だそうである。日本人のマナーの良さは誇りに思い、そして大切に守り続けたいものである。

 日本では霊場会に入っているお寺のことを札所というが昔は巡礼した本堂の壁や柱に木製や金属製の札を釘で打ちつけていたそうである。かなり乱暴な話だ…
 お寺を札所といったり、お寺を巡ることを「打つ」と表現することもあったそうであるから、そうした行為はかなり一般的なことだったのだろう。(通常のルートと逆に巡ることを「逆打ち」といつたりするのはこのためである)

 今日では紙製の札に願い事などを書いた納め札をお寺に奉納するのが一般的である。建物を大事にする上ではそのほうが良いだろう。
 古い慣習の中にもやはり改めるべきものもある。