加油!日本

   【京都新聞観察日記】

 先日、テレビのCMで「加油!日本」という映像が出たので良く見たら食用油のCMだった…
(ご存知と思うが中国語で「がんばれ」は「加油ジィアヨウ」である)連日オリンピックの話題が尽きない。


 18日付けの京都新聞に作家の高村薫氏がオリンピックについて書いておられた。(「モチベーションとは?」)
 高村氏は日本の選手がトップレベルに届かない原因として、モチベーションの弱さをあげておられた。

 高村氏は選手達が「日の丸を背負うというモチベーション」を抱くことには否定的である。
「いまやそんな時代ではないし、国民の期待に応えられない選手が自殺するような悲劇は二度とみたくない」と言う。

 だがオリンピックは国家と国家の戦いであり、各選手は望むと望まざるとに関わらず各国の国旗を背負って戦うべきものである。勝利者の前には国旗が掲げられ、国家が演奏される。
 オリンピックが国家と国家の戦いであることなど自明ではないだろうか?高村氏は作家としては高名な方だが大丈夫か?(笑)左寄りの京都新聞の喜びそうな論調であるが…国家への懐疑や否定の意識を持ったまま、オリンピックで戦い、オリンピックを観戦するというのはある種の滑稽ですらある。


 日本人の多くは国家の存在に懐疑的である。
 正確にはそのような意識を植え付けられて育ったというべきだろう。
 私自身も国旗を掲げたり、国歌を歌うことすら戦争につながるから拒否すべきというような教育を受けて育った。

 これからは脱国家の時代であり、地球市民を目指すべきというような人達はオリンピックを徹底的に批判するべきなのだが、そのような気配は一向に無い。家ではやっぱりテレビでオリンピックの結果に一喜一憂しているのだろう。それでいいのである。

 国家を肯定するということは国家のしていることを無条件で認めることではない。国家に非があれば国家と戦うべきである。
だが、国家という自分を包摂する存在が確固として存在し、繁栄し、評価されることに喜びや感動や感謝を覚えることは自然である。その自然さを否定し続けた不合理をもう一度反省すべきだと思っている。

 先日、施餓鬼の後片付けの為に本堂に安置してある位牌を整理していた。
 本堂にお預かりしてある位牌の中には戦争で亡くなった方のものが見受けれられる。
 位牌の形が先端の尖った角柱だったり、錨や星が記されているもの。戒名に「殉」「忠」などを含むものは戦死者の位牌である。

 戦死者の戒名を記した小さな白木の位牌が眼に付いたの裏側を見ると、誰が書いたのか小さな墨書きの字で戦死された当時の激烈な戦闘の様子が書かれていた。大抵は「比島ニテ戦死」のような簡単な記録しかないのだがこの位牌には分隊長として最前線で指揮中に壮絶な戦死を遂げられた様子が事細かに記録してあった。恐らくこの位牌は何十年も手に取られたことがなかったに違いない。そのことが不思議な感慨のようなものが浮かんだ。

 かって日本人は日の丸を背負って命を掛けて戦った。
 そして今日も尚、国旗の下に戦う人達が居る。
 それは厳然たる事実である。

 かっては国家の為に全ての個人が奉仕することを余儀なくされた。
 今日は国家の徹底した否定のもとに個人のエゴが無制限に拡大し続けている。

 私に思いついたのは戦死者の供養を通じて、もう一度、この点を問いたいということである。来年の施餓鬼では戦死者の為の塔婆供養するという考えが浮かんだ。
 多分、私はそのようにするだろう。

 加油!日本