外務省・国家戦略室の大罪と<密教>


【のんびりしてられない日記】【密教入門】
昨日の真言の話の続きを書こうとしたら、知人からがっくりするような話を伺った。

アメリカの小学校では現在3000人の子供達が日本語教育を受けている。

これは20年前のバブル経済絶頂期に日本に照準を定めた国策として日本語教育が振興された結果なのだという。それが今、中国語教育に取って代わられ、来年度からその予算が削られるという。

アメリカで日本語を学ぶ子供達はやがては日本の理解者、支援者として極めて有望な存在である。それを日本の為政者も企業も支援しようとしない。
フランスが国を挙げて外国人のフランス文化やフランス語の習得を支援しているのは有名だが、中国も韓国も同様の援助や支援を積極的に行っているというのに。

なぜ日本だけがこんなに遅れているのだろうか。

無策とは愚策ということである。

日本が他国に追い抜かれることを手を拱(こまね)いていることを真剣に憂慮しなければ日本の未来は無いのである。



密教夜話

密教夜話



真言密教というのは真言、印、観想という三密加持によって仏に至る仏教である。

すると…

「特別な真言や、特別な印や、特別な観想を伝授されれば特別な力が得られる」と考える人たちが大勢出てくるわけである。だが、その前にもっと大切なことがあるのではないだろうか。


極端な例を挙げれば悪事を働き、酒色に溺れ、怠惰無為に過ごしている人間が高度な密教の修行をなそうとしても行は成就できないか、あるいは成就したと思っても大きな災禍に遭うということである。

なぜかというと三密加持というのは日常の意識とリンクしているということである。

朽ちた船に高性能のエンジンをつけて無理に走らせれば、船体はばらばらに砕けてしまう。
高性能エンジン=三密加持とすれば船体にあたるのは修行者の日常の意識ということになる。

三密加持は一座が数時間に及ぶこともあるが、行法をしていないときの意識のあり方が三密加持のあり方を決定的に決める。いうまでもなく行法をしていない時間というのは圧倒的に長いのである。日常の意識の持つ<慣性力>を努々軽んじてはならないのである。

三井栄光氏の「密教夜話」を読むと、高野山の大学匠でありながら自ら田畑を耕されたり、失業した見知らぬ一青年に宿を貸して、寝食を共にして密教の教えを説かれるといった姿が描かれている。立派な方だと尊敬の念を禁じえない。

三井師は眼の前の全てが大日如来から得たものだと自得される。
水も空気も、身に降りかかる幸不幸もすべて大日如来の形を変えたものだという自得の中で生活しておられる。

そうした築かれた純粋で高度な心性があって初めて真言によって不治と診断された病を癒すという奇跡があったのではないかと思われる。

軽輩の分際でと哂われるかもしれないが、自分は世の中のこととは没交渉で深い密教の世界にいます…というのでは本当の感応は難しいのではないかということである。

個人の意識は「自分はどういう人間か」という<自己観>だけでなくより上位の社会観の中にある。つまり「日本という国はどうあるべきか」、「日本とは何か」、「アジア人とは何か」、「人類とは何か」…

残念ながら日本人は戦後の偏った教育の中で正しい国家観や社会観を持ちにくくなっている。偏向した教育やマスメディアのからの刷り込みを自力でリセットしないといけないからだ。これはなかなか大変である。

日本という国家や民族についてきちんと前向きに考えるという習慣をつけることは、密教とも無関係ではないのである。

【告知】
2月3日午前10時より節分祈願祭が行われます。年に一度の本尊波切不動明王様ご開帳の機会です。尚、ご開帳は法要の時間のみですのでご注意下さい。祈願お申し込みはお早めに願います。(当日参拝できない方、遠方の方には後日、御札を送らせて頂きます)詳細はHPにて。→http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/



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