聖徳太子の棺
夜半から雨が降り始めた。
日本列島直撃コースの台風も接近中で少し心配である。
一昨日は私の留守中にサルの群れが3つも境内にやってきたそうである。総数約40頭。
見たかった…
昨日は娘が下校中に大きなサルが道路に出てきたらしい。
するとどこからともなくサル追い用のロケットが発射され娘のいるほうに飛んできたらしい。
とんだとばっちりである。
先日見た運慶展の余韻を時々思い返す。
やはり白眉は無著像であろうか。
無著像はややうつむき加減につくられていて、台座の上から私たちを見下ろすような位置にあった。
その眼差しが頭から離れないでいる。
同じく出陳されていた愛知県瀧山寺の聖観音菩薩は頼朝の三回忌供養のために運慶、湛慶により作られたものである。
その身長は頼朝と同じに作られていたとされる。
先日のNHK「歴史秘話ヒストリア」では聖徳太子が取り上げられていた。
タイトルは『聖徳太子の棺 伝説のその先へ』
法隆寺の釈迦三尊像(国宝)の銘文「尺寸王身」の解析から釈迦如来の身長が聖徳太子と同じであるという推測は良いとしても、いつの間にか釈迦如来のお顔が聖徳太子のお顔に似せて作られたのでは?という話にすり替わっていて、ちょっとしたツッコミどころだった。
「尺寸王身」の銘はあくまで身長の話でしかないのに…
夢殿の救世観音は聖徳太子のお姿を写したという伝説はあるがそれはあくまで別の話。
どう転んでも釈迦三尊像の釈迦如来が聖徳太子のお顔に似せて作ったという話にはならないのである。
もっとも今回の番組は良いところも沢山あった。
聖徳太子の功績として有名な憲法十七条や冠位十二階などがなぜ必要であったかの意味づけとして制度そのものの必要性としてよりも対中国的なプレゼンス…
「日本というのはこんなに文明国なんですよ!」
みたいな部分を実に分かりやすく示していた。
近年、大坂と奈良を結ぶ道幅20メートル、4車線道路に匹敵する大道の遺構が発見された。
さらにこの大道に沿って四天王寺、渋川寺、法隆寺、中宮寺、小墾田宮、飛鳥寺など太子ゆかりの寺がズラリと並ぶ。
中国から派遣された使者達はこのルートを通った可能性が考えられるという。
道幅の広い道路は当時の文明の高さを示すインフラであったのでその可能性は多いに高いといえる。
聖徳太子の事績として憲法十七条や冠位十二階は必ず語られるが、それが対中国を強く意識した国際戦略に基づくものであったというのはかなり納得のいく説明であった。
聖徳太子の名前が教科書から消える…というニュースが取り上げられたが、その聖徳太子の代わりに用いられるとされた名称が「厩戸王」。実際にはスッタモンダで2つの名前が併記されることになるらしい。
聖徳太子というのはあくまで後代の呼び名であるというのが文科省の説明だが、後代の名称が不適切ということになれば欽明天皇、推古天皇、天智天皇、天武天皇も使えないことになる。
しかも「厩戸王」は広島大学の小倉豊文という研究者が戦後になってから後代のイメージに縛られずに研究するために<仮に用いた名>であって、史料にはまったく見えない名称。
実際に使われたことのない名称!
これを実名であるかのように扱うのはどう考えても不適切ですよね。
※本件に関したは下記の記事を参照にさせて頂きました。
【聖徳太子研究の最前線】http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog
私がずっとひっかかっているのは、聖徳太子と<馬>がいろいろなところで結びついているところである。
厩で生まれたという伝説はキリスト教の影響によるというのが昔から言われるところだが事実だろうか。
中国で最初に作られた仏教寺院の名称は白馬寺であり、<馬>というのは古代の仏教では何か重用な役割を果たしていたらしいのである。
同時代の蘇我馬子がどうして<馬>字が付くのか…
最近少し驚いたのは仏教公伝の538年は午歳であるという指摘。
【関連記事】http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
<馬>と古代仏教、そして聖徳太子の結びつき、そして若狭に多い馬頭観音の関係は…
秋の夜長に楽しい妄想は尽きない。聖徳太子の棺の蓋はまだ閉ざされていないのである。
【兼務寺院多禰寺の駐車場から舞鶴湾を望む。多禰寺の創建は聖徳太子の異母弟であるとされる。】
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