オバタリアン(死語?)
今日も好天。駐車場は常に満車に近い。
結構の人出だが、よく見てるとウチの駐車場にみんな車を止めて、向かいの公園で紅葉を愉しんで帰る様子…なんか納得いかないなあ…
今日、学生っぽい添乗員さんから
「昨日、副住職のブログ見ましたよ!」
と明るく声を掛けられた。ブログはもちろん不特定多数の人に書いているのだが、面と向かってブログ読んでますとか言われるとちょっと恥ずかしい気がする。でも嬉しいものである。
オンシーズンの忙しさも山場を越えたがさすがに少々疲れ気味。
疲れたときはミツカンの「甘熟 純りんご酢」人肌くらいのお湯で割って飲むと疲れが取れる感じがする。昨日、寝る前に薄暗いキッチンでこの「甘熟」のお湯割りを飲もうとして一口飲んだとたん絶句。
よくよく見ると、「甘熟」の隣に置いてあったゴマ油を間違えてお湯で割って飲んでしまった!ビンの形も液体の色もそっくりで薄暗いキッチンの中で間違えたらしい。口の中がぬるぬるして…最悪!
団体さんの引率して案内していると関東系と関西系ではやはりカラーが違う。
関東は大人しくて真面目。関西はかなりイケイケである。
関西のイケイケのおばちゃんも決して嫌いではないのだが、勝手にもみじの苗木を引っこ抜いて持ち帰ったりするのには閉口する。それどころか引き抜いた苗に水をやりたいと平然と要求されたりもする…
山門にビニール傘が置いてある。
当地は天候が変わりやすく、いきなり雨が降ることがあるので貸し出すのだがだんだん数が減ってきた。
本当なら濡れるところを借りた傘でしのいで、感謝するどころかそのまま持ち帰るというのは頂けない。先日もある団体にそのことを話たら
「持ち帰っても邪魔なだけなのに!」
と全然、予想外のことを言われ苦笑。
「譲って損はない、奪って得はない」
という言葉である。(もっとも人から聞いた言葉なので正確な出典は知らない)
人に譲ったらその人から返ってこなくても同じようになにか良い結果が得られる。逆に人から何かを奪ったら、自分もまた同じように奪われる…一応、仏教的な因果応報の道理を通じてこの言葉を説明することにしている。
はじめはかなりイケイケだった関西のおば様が話をするうちになんとなくしんみりと、まじめな顔になってこちらの話を聞いてくれるのは嬉しいものである。この仕事の冥利に尽きると言える。
「オバタリアン」という言葉は死語に近いがまだまだ通用する。
そもそもこの言葉は「バタリアン」というSFホラー映画に出てきたモンスターの名前をもじってできたものであったと思う。
「バタリアン」という映画自体は忘れられているのに「オバタリアン」のほうが生き残ってるのは面白い。やはりシブトイというべきか。
もっとも一番大変なのはオバタリアン…じゃなくておば様達を引率する添乗員のほうだろう。まだ新人ですという顔をした若い添乗員が懸命にオバタリアンの群れ、じゃなくて一団を引率している姿を見ていると内心、気の毒になる。もっとも添乗員のなかには経験を積むうち自分がオバタリアン化するという現象もあってなかなか興味深い(笑)受付へやって来て「添乗員への特別なサービスはありますか?」などと横柄に聞く者もいたりする。ウチではまだないがリベートを要求する者もいるそうである。困ったことだと思う。
逞しく前向きなのはとても大切だが、ひたすら自分のことだけを考えて生きても詰まらないと思う。仏教というと<欲>というものを全て否定するようなイメージがあるが、他人を幸せにしたい、自分を向上させたいというのも<欲>である。自分を満たす<欲>というのは<最も小さな欲>だと思う。<もっと大きな欲>を見出してそれに自分を賭けて生きていけたら素晴らしいと思う。