「硫黄島からの手紙」ペリリュー、旅順、塹壕戦について

硫黄島からの手紙 (特製BOX付 初回限定版) [DVD]

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テレビで「硫黄島からの手紙」を見ていろいろな感想を持った。



最初の感想はこの映画がアメリカ映画でありながら、アメリカの大義名分だけを誇示することもなく、日本の立場や心情にも十分触れる良い映画だと思ったことだ。



日本的な陰影があると表現したくなるようなしっとりとした映像美があり、戦争という巨大な流れに巻き込まれていく個人の無力さ、儚さ、切なさが感じられた。




感想の第二点はなぜ硫黄島が激戦であり長期化したのかといった問題については殆ど触れられていないことが少し残念だったことである。



このことについて何度もブログに書こうとしたが上手くいかずに投げ出していたが、いつもながらの散漫な書き方になることあきらめつつ書いてみることにした。


ザ・パシフィック 上

ザ・パシフィック 上


第二次世界大戦を描くテレビドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」の続編「ザ・パシフィック」は太平洋での日米の戦闘を描いている。全10篇のうち3編はパラオ諸島ペリリュー島の戦いで費やされている。


異論があるかもしれないが、ペリリュー島の戦いは硫黄島をしのぐ激戦であった可能性のある戦闘であった。


ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)

ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)

ペリリュー島での日本軍の壮絶な戦いを記録した貴重な記録であり、この戦いを知るには必読である】



「ザ・パシフイック」でペリリュー島上陸のシーンはやはり白眉と言うべきシーンであったと思う。



上陸用舟艇の船団が粛々と海岸に向かっいく情景と南国の海浜の遠景…


自分の眼前で正に米軍が上陸を果たそうとしているような感慨であった。



上陸してからの日米の戦闘にも観るべきものも多いが、なぜペリリュー島が激戦であったかという部分には十分触れられていない。



ペリリュー島で戦闘が長期化した理由は日本軍が島嶼に深く戦闘地域を設定し、自然の洞窟や掘削による半地下乃至完全に地下化された多数の陣地を根拠として持久的な戦闘を企図したことによる。


これは日本軍の伝統的な水際防御からは大きく外れるものである。同時に水際での防御で戦力の多くを消耗するというそれ以前の反省にたつものであり、アメリカ軍に莫大な人的被害をもたらした。この戦闘の様式は硫黄島、沖縄での戦いに引き継がれてゆく。(このことは極めて重要であろう。)


「地下化・半地下化された陣地を攻略する場合、砲撃は決定的な威力を持たず、最終的な手段は歩兵の突撃による占拠しかない。そしてその陣地に機関銃が装備されている場合攻撃側の被害は甚大となる。陣地が複雑化し、多数になることでその被害は拡大する」


アメリカ軍が莫大な人的損失を蒙った要点は恐らくこれだけしかないが、このことは他の戦争に通じる普遍的な意味を持っている。

そしてこのことを映像化することは難しいということである。






【貴重な資料により旅順要塞がいかに攻略の難しい存在であったかを解明しています】


 日露戦争で日本軍は旅順攻略において一万五千という莫大な人的損害を蒙った。




この事実から第三軍司令官であった乃木希典の無能さ、ひいては日本軍の無能さを演繹する議論も多い。「坂の上の雲」を著した司馬遼太郎はその代表である。



その10年余りの地に起こった第一次世界大戦では対峙した両軍が塹壕を構築して戦うという塹壕戦が恒常化していった。



塹壕戦によって戦闘は長期化し、莫大な人的損害を伴うものになった。




旅順の一万五千という数字に拘泥する者は、この第一次世界大戦塹壕戦を想起すべきである。



ヴェルダン攻防戦では両軍合わせて70万人の死者が出たのである。


旅順の犠牲の本質は第一次世界大戦の犠牲と全く同質であり、鉄条網、塹壕などにより防御され、機関銃を備えた陣地への攻撃が極めて困難であるということである。一台の機関銃が千人に及ぶ被害をもたらすこともあったという。



〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦 <上>

〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦 <上>




「[図説]第一次世界大戦」(学研)の上巻では「塹壕戦」という項目が設けられている。塹壕戦の項は僅か数ページだが、塹壕戦の特性を明快に説明している。



【「[図説]第一次世界大戦(上巻)」所載の塹壕のイラスト】



塹壕第一次世界大戦にはじまるものではない。南北戦争末期には両軍が塹壕を掘って対峙する局面があった。しかし第一次世界大戦の過程で単なる“溝”ではなく強固な防御システムとなっていった。



塹壕陣地についての記述を本書から一部抜粋してみる。



     

『開戦直後には、早くも西部戦線の左翼に配置されていたドイツ六軍がモンランジュからザールにかけて塹壕陣地を構築しているが、この時のものは塹壕といっても単に地面に掘った溝といった代物で、大半は兵士が直立すると上半身が露出してしまう程度の深さだった。一九一四年九月にドイツ右翼の進撃が停止し、エーヌ河北岸の高台に塹壕陣地を構築しはじめた時も、最初はかなり粗末なつくりだったとされる。
 ところが、連合軍の反撃を阻止しつづける過程で、塹壕は急速に頑丈かつ凝った構造となり、最終的にはあたかも抽象芸術のように複雑怪奇な「死の迷宮」へと進化していった。やがて、塹壕陣地はスイス国境からフランスとベルギーを貫いて北海へ達し、両軍合わせて数百万もの生命を飲み込む「肉挽き機」となった。
 このように、戦闘の過程で塹壕陣地が固定され、複雑な構造へと進化していったことが、第一次世界大戦における塹壕陣地の特徴といえよう。
(中略)
塹壕の構築方法には英式、仏式、独式といったバリエーションはあるものの、基本的な構造はいずれもほぼ同一とみてよいだろう。本格的な塹壕陣地の構築が進んだ一九一五年以降の場合、塹壕は深さ約三メートル、幅約二メートル程度の溝で、最低部は排水溝になっている。そのためイギリス軍がダックボードと呼んでいた「すのこ」(敷板)をならべて蓋にした。掘り出した土は土嚢に詰めて塹壕の縁に積み上げ、縁から土砂が崩落するのを防ぐとともに爆風よけとした。よほど大柄な将兵でもない限りは直立歩行しても敵から姿を見られることはない。
大戦初期の段階から塹壕陣地は複数の平行した塹壕で構成され、それぞれが連絡壕でつなげられ、やがて警戒用哨所や機関銃座、迫撃砲座、などが相互に支援するよう配置されていった。主塹壕線はもちろん、連絡壕も含めたほぼすべての塹壕はジグザグに構築され、進入した敵の縦射を阻止すると同時に孤立させられるようになっていた。
その他、塹壕陣地には将兵が起居する宿舎や便所、負傷者を一時手当てする包帯所など、支援用の各種施設も備えられていった。戦線全体では塹壕陣地が数線にわたって構築され、例えばイギリス軍では前方区域、戦闘区域、後方区域の三層から成り立っていた。
(中略)
塹壕陣地では劣悪な環境による「戦闘以外の消耗」も多く、有名なスペイン風邪の他にもコレラチフス、凍傷と細菌感染症が組み合わさったトレンチフット(塹壕足)等、多種多様な疾病が流行した。幾日にもわたって極度の緊張を強いられるために精神を破壊される者もおり、第一次世界大戦後、欧州の各国では帰還兵の社会復帰が極めて深刻な問題となった。
(中略)
大戦後はこのあまりに過酷な塹壕戦を強いられたことへの反発から、反軍感情が噴出したり虚無的な風潮が蔓延し、ひいては従来の社会構造そのものに対する不信感を生んだ。文字通り「明日の命すら定かでない」日常を経験した帰還兵たちは、過激な政治活動に身を投じたりあるいは犯罪に走る者もいた。
帰還兵のもたらした社会不安はロシア革命につながり、またドイツではヒトラー率いるナチスが台頭するひとつの要因となった。
こうしてみると、塹壕戦の記憶は、のちのヨーロッパ情勢にまで影響を与えたといえる。』






あまりの悲惨さと悲しさから戦争について知るということを避けていた時期があったが、戦争で亡くなった方の供養を志してから努めて戦争に関する書籍を読むようになった。戦争という人間の所業を通じて歴史を考え、人類を、日本人を考えることも時には必要であると思われる。


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