危険な般若心経  浅き夢みじ 

 


昨日は久しぶりの好天。本日も雨の後、晴れ。


何しろ一昨日まで3日も雨が続いたので、こんな天気でも有り難いのである。


舞鶴というところは本当に雨が多い。


午後に来られた団体さんに境内で説明していると本堂横の大きなイチョウがかなり黄葉しているのが見えた。


本堂横のイチョウの黄葉ともみじが綺麗なコントラストを見せる頃が紅葉のピークである。



写真を撮りたかったが忙しくて写真を撮れず残念…






先日、法事に行ったら、子供達が何人か最前列に座っていて、般若心経を書いた紙を持っていて、



「般若心経を読んでやるぞ!」


みたいな意気込みがひしひしと伝わってきた(笑)


普段の法事では般若心経を使わないのだが、


そこはやはり臨機応変で最初に「般若心経」1巻を一緒読むことにした。


「般若心経」というのは一番よく使うお経であるが、それだけに


自分の中にこのお経を読むテンポや間ができあがってしまっている。


他人と読むことでどうしてもこのテンポや間がずれてしまうのである。



従って他人と一緒に読んでいるとまず間違えないはずの「般若心経」を間違えるという恐ろしいことになる…



そこで最近は用心して一般の方と「般若心経」を読むときは経本を見ながら読むことにしている。



在家の方、とりわけ子供達の読経する声を聞くのは良いものである。


大人にはないとても素直な一生懸命なものを感じるのである。
それはもしかしたら私が無くしているものかもしれないと思ったりする。


子供達と一緒に読経してとても清清しい気持ちになった。


法事が終ってからお茶を出して頂いた。


蓋付きの湯飲みでお茶を出して頂いたら、その湯のみを見て一人の子供が


「茶碗蒸し!」


と言ったのでおかしかった。





亡くなった方を送るというのはやはり特殊な仕事といえるだろう。


時々、死ということについて考える。


死が必然であることは子供でも理解できるが、
それを自分のことと考えることは至難である。


しかし、死はしばしば突然にやってくることがある。




「死んで彼岸にいたるのではない」という考え方があるのをご存知だろうか。


つまり私達はこの世の存在であると同時に実はあの世の存在でもあるということである。


死ぬということは極めて些細なことであるということになる。



死というのは本質的な重要性を持たないということになる。




こんな考えなど多くの方は一笑に付すに違いないが、
私は傾聴に足る考えだと思う。


「煩悩即菩提」という言葉があるが、
この世が即ちあの世であるという考え方は私にはとても魅力的である。




生きている私がいつか死に至るののではない


生きてていると同時に実は私達は「あの世なる存在」であるというのだ。


般若心経に「遠離一切顛倒夢想」という言葉がある。


一切の顛倒夢想を離れるとはどういうことだろうか。


真実ではないことを真実であると信じきっていることが顛倒夢想である。


私達は顛倒夢想の中に生きているのかもしれない。


いつかこの夢から覚めるのだろうか。


浅き夢じ 酔いもせず…


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